特集記事コラム編:「障害者」の多様性―リオパラリンピックの感動

千葉市の熊谷市長が言うにはやはり障がいは障害として書くべきだという意見です。私はこの意見も妥当だとすごく思う。熊谷市長ぐらい頭いいとやはり解釈の筋道と論理的な部分・倫理的部分がしっかりと書かれていて、納得します。障害は先天的なものではあるけれどもそれを乗り越える人々のことを言う、そういう意見です。ただし先天的という意味だけで簡単に話せないものでもあって、障がい・障害、双方ともにあっている表現であるわけですよ。

例えば、福島智先生なんかは多様性があるっていう主張だと思います。聾唖といいますが、単純にひとつの障害としてわりきっていいもんでは決してない。例えばどの部分がどの時期に障害で失われて、どういった傾向に現状あるか、プロセスはどうっだっかということを見なければならない。例えば、目と耳が聞こえないひとのことを聾唖といいますよね。でもどの時点で目が見えなくなって、それがどの程度影響したか。当然年齢問題もありますね。それに加えてどの時期に耳が聞こえなくなったか、どの程度影響したか。こういったことを考えていくとわかるけど、障害っていうのには”多様性がある”んだ。だから風刺の問題も含めて差別も起こる。

でもでも私が信じられないのはパラリンピックで目が見えない人が水泳を志しているということです。ある日本の、銀メダリストについていえば、2歳のときに失明した。目が見えない人の中でもかなり重度な障害だと思います。ほぼ先天的になかったわけですから。それ以前として、目・視覚は情報量がかなり多いですよね。これを早くに失ってしまうってのは人生絶望だと思います。でもそれに負けずに雑草のようにがんばっている。彼らの活躍は素晴らしいものだと賞賛されるべきだし、尊敬するのはオリンピックの選手ではなく、パラリンピックの選手だと本質的には思っています。

―「彼らの高潔な精神性が今、リオの地で確かに花開いています」

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