哲学:「政治思想編」新フクヤマのパラドックス

フクヤマをめぐっては大きな問題がある。自身が公言するように、フクヤマとしてのいっちばん有名な著書である「歴史の終わり」の妥当性がないことをフクヤマ自身認めている。「歴史の終わり」では、歴史が冷戦の勝者であるアメリカの主体で終結するという有名な論説をなした。だが、それはフクヤマがネオコンと距離を置いたり、かつてネオコン寄りだったということもあってか、当然のように厳しい批判にさらされている。彼はスタンフォードの研究センター長を今は勤めているそうだが、やはり彼ぐらいの識者になっても矛盾は一生を通じて解消できない。

アカデミックな業績はフクヤマに多々あって、彼の著書も全てにわたって興味深い示唆に富んでいる。例えば、本書ではアーレントのようなフランス思想(もっといえば、フランス思想の暴力的な部分)をもとに紐解く政治思想があるし、その政治思想的矛盾のパラドックスはアーレントそのものとも彼の人生を賭した偉大な業績にも比較できるものだと私は思う(アーレントは政治哲学者だが、やはり彼女もフクヤマと同じく矛盾なき文章を一生涯で書いているわけではない)。

エマニュエル・トッドは名著「帝国以後」で、フクヤマをむしろ評価している。トッドが言うのはむしろ合理的パラドックス=すべての論理を挿げ替えるトッド流のパラドックスのことであって、その批判の先鋒は反米主義のノーム・チョムスキーだったりする。すなわち、チョムスキーはトッドと同じような意見を持っていて、米国の帝国主義化を懸念しているのだが、むしろトッドが批判するのはこの当のチョムスキーである。トッドが引用するのはむしろ体制派であるフクヤマの方であって、ここにはパラドックスが解釈問題であることを示している。

そもそもパラドックスというものは「ギリシャ語で「矛盾」「逆説」「ジレンマ」を意味する言葉。数学・哲学の分野では「一見間違っていそうだが正しい説」もしくは「一見正しく見えるが正しいと認められない説」等を指して用いられる」(http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9より引用)ということであって、多様的に感じられる語源でもある。ゆえにこの記事ではフクヤマとチョムスキー、アーレント、トッドの論述の手続き的なプロセスが複雑化していることを指さすものである。

政治思想や政治哲学は難しい問題を常に抱える。大阪市長(トランプを支持する限りはりぼてだが)もいうように、政治の原理とか主義を経た、実践のレベルは結局のところ政治の客観的判断によって多くの人に評価されるかどうかという結果主義が求められる。これは安倍も認めているようにだ。だから原理や主義を立ててそこから実践を国家レベルでやろうとすることは非常に困難である。これが多くの国家が今後行き詰る理由だと私は思う(ついでにいっておけば、国家論が学問的に難しいジャンルなのもこの論理であれば納得がいく)。要するに、論理の理想やアカデミックな業績は、現実の政治の結果性とか事後評価とはまた違った問題なのかもしれない、そういうインスピレーションでのことを指すのである。

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