Key「Air」評論―みちるのエピソードを見ていたら、堕胎は禁止すべきという観念論が浮かんだ件

遠野美凪「日本人はお米族」―TBSウェブサイトより引用させていただきます。
引用元URLhttp://www.tbs.co.jp/anime/air/chara/minagi.html―みちる「美凪も笑って!」

あれ?Primeから「Air」消えてね?ってところでサブカルSSネタとして書いていこうか。リトバスもシャーロットもループものですが、やはりそれはそれでいいかな…。でもこの作品が結局Keyの最高傑作だったと思います、映像化して大成功したのも含めて。Karimono氏によるとこの「Air」の映画版では劇場で「みすずちん好きだーー!」とか言い出すひともいらして、けっこう過激派が多いようなそれでもなんでもヤンデレ的ななんかやアレであっても正常な範囲内にいる人々というかなんというかファンというかわからん気分です。それでも一番好きなのはやはり美凪とみちるのエピソードですね。ちょっと復習兼ねてストーリーを追っていこうか。

このシーンでいいのは単純な構成ですね。単純にただひとりが空想と現実が入り混じる世界で生まれ、「羽のかけら」をもらった。それが抽象的ながら生命を構成するものとなった。みちるがどこまで現実の世界に入り混じっているかはわかりませんが、別れの季節がやってくることをみちるも知っている。そして、彼女は消えて、彼女のいう「帰る場所」に帰っていきます。これは生命が羽に変わってもとの場所へ返還される運命にあるものだということです。

ここまでみればよくわかりますが、これは生命がいかに単純化され、抽象化された夢物語だとしてもそれはあってはいけないものではないということです。ここのエピソードを見ているとやはりひとつだけ運命的なめぐり合わせで出生前診断とかが話題になっている今だからこそ野田聖子のいうような、キリスト教右派の主張でもある「堕胎の禁止」というものを検討するに値するものだということです。アメリカ共和党右派の主張でもあるこの原理は理解ができる範囲にある。いわゆる「プロチョイス」って問題ですね。

今技術が発展して、ある種のみちるらしき存在が多くなっています。それは劇中でのみちるの運命とも重なって、不完全な形で障碍を先天的に抱えた人が生まれゆくものでもあります。そうしてそれを運命として受け入れなければならない。たしかに難しいことです。ただみちるが主人公に泣きつくようなシーンをみてやはりこれは正しいということだということを認識せざるを得ない。先天として生まれ持った障碍は未来を見えないものだからこそ正当化し、それを見えるようにするような技術を安易に応用すべきではないという論理は成り立ちます。

しかしながら、これはモラールの問題でもあり、倫理的技術問題であります。右派というと保守の派閥を思い浮かべますが、やはりこれは矛盾もある。合理的な両方の論理の中に矛盾が生まれ、その衝突により一瞬で議論は寸断化されそれまで成り立っていたものも成り立つものではなくなるのです。合理的主義の矛盾がみちるのエピソードにはあっている。ただ、みちるが涙を流し訴えるように命が限られている状況、正確に言えば命が不完全にうごめく様相を見せられて、やはり希望的観測として、命が平等であってほしいという願いはどこの合理主義にも属さずにあっていいのではないかと思っています。

それはやはり堕胎という行為が子供をもうけるということと並行しての無責任であるという初期的な感情と入り混じったようなある種保守右派と断定されてもいい、それでも信じきるものがあればそれで救われる(信じるものは救われる)はずだという結論が私なりにこの「Air」の中でも最高にうったえかけるものがあると思わされる実例でありながら空想であると同時に現実的な理想でもあると思うのです。

そしてその傍観者でありながら論理のつじつまあわせといえども涙ながしながら別れを笑いで終える、最後のシーンの「日本人はお米族」という名言を持った、遠野美凪の存在も忘れられずその外面性にあって我々視聴者とともに通じる観念論があるということにも一貫して同意せざるを得ないのです。

美凪との出会いが生んだかけがえのないもの
それを大切にしまって空へ戻っていける
さよならさよなら美凪、みんな
羽のかけらをもらった日々にさようなら

最後のさようならをいって戻る場所へ
夏の終わりとともに吹いた風は私をなびかせ
最後の終わり音をそそのかすよ
そのなかで、風がすり合うその中で最後にさようならをいうよ

最後の、最後のさようなら
羽のかけらをもらったひと夏の夢に、最後のさようなら

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