特集記事:サイバーカスケードと集団分極化(group polarization)

https://en.wikipedia.org/wiki/Cass_Sunstein

高度情報化された社会はわれわれにインターネットを通じた再定義をもたらす。情報媒体があふれそれに影響されること、およびその結果によって集団は極性化する。本書も指摘するようにその危険性は大きい。あたかもインターネットが表現の自由とか自由民主主義におけるファクターとして得られるかのように感じるのは誤解だとサンスティーンは指摘する。これは社会心理学者が多く最近言及している概念の先駆的な業績である。簡単に言えば、サイバー空間における罠にはまるとその討論はさらに先鋭化し、思想を極性化してしまうのだ。この理論は実はサイバー空間が本格的に発展する前から見られた余裕のある兆候であり、古代の哲学者の間では常識であった。

このことから導けることとというのはまずひとつめに、我々は自由と民主主義を保つために正確な情報把握をせねばならないということだ。情報量が対等でなければ、「よく考える(哲学者シャルティエ・アランによる定義)」ことはできない。サイバーカスケードの罠にはまってはいけないのだ。我々が平等に情報量を対等に扱うべきだということは目標である。そうすれば集団内で意見が限定的に収まり、それがあたかも関数のごとく収束していくということは予防できる。インサイダー取引という法的にもあいまいな定義がこのサンスティーンの情報量の等価原則を反証しているのだ。

第二に肝要なのは情報社会においてのメディアリテラシーを守護することだ。我々は情報に接するとき、その理念に共感するよりかは傍観者としてそれを見ることが一義には重要である。これはごくあたりまえのことであって、この第二点目はすぐにでも中高等学校で「情報」の授業で学ぶとおりのことを言っているだけだ。情報の質を保つこと、「よく考える」ことを前提にしなければ我々はインターネットに逆襲されるだろう、情報社会において大きなサメに逆に喰われることになるわけだ。情報戦争が日常化した現代のポピュリズム政治においてはむしろその存在価値は抽象的ながら強いものになってきている。当たり前のことを当たり前といえない世の中ではカスケードへの防波堤は有効に作用しない。

インターネットは(そしてインターネットが普及した現代の世の中でインターネットに疎い人でも…)この二点を押さえれば民主主義における正規的革命になる。直接民主制の時代と共産主義的情報社会(チョムスキーのいう無政府主義的な生産社会)の到来は近い。そしてそれは、特定の理念に順ずるだけの組織はなくなる。我々は政党という概念を否定し、我々の心性から来る新しい情報革命の手綱を引くことができるようになるだろう。情報戦を制すれば我々は情報の抽象的な財産の活用に大きなベネフィットを持つことができる。あたかも映画で大きな情報思念体と対峙するかのようにである。

要するにカスケードの問題は第一に情報量の問題であり、第二には情報の質の問題なのだ。この様子は理解のイマジネーションとしては物理学におけるテンソルとベクトルの問題にかなり近似している。集団分極化は現代の政治を考える上でもこのベクトル・テンソルの感覚的価値観が重要である。我々はその綱渡りを終えなければならないときが着ているとサンスティーンは提起してくれているように思える。憲法問題も根源的には同じで、たとえ情報機器に疎くたってそれは関係がない(事実、サンスティーンは近年この”ネット概念”を拡張している)。右が右だけで話し合いを持って何かを得たりすることに錯覚を覚える、左が左だけで話し合いを持って何かを得たりすることに錯覚を覚える…こういったことはカスケードの罠と本質に立ち向かえば比較的簡単に解決できる。我々が集団分極化(group polarization)に対抗してやることはすでに決まっているからだ。

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