意思決定:人身事故を助けて殉ずるのは”無駄な行動”なのか?

毎日人身事故が起きて、迷惑だっていう方がいますが、本当にそれだけだろうか?と私は思います。というのも私にはそういう感覚よりも人身事故によって失われた命が頑としてあるという事実性に着目してしまうからなのです。これはきれいごとだけでなく、事実遺族に賠償が行くこともある。その場合はマイナスをチャラにするために必然的に法律の手続きにのっとって、相続放棄を弁護士などに依頼せざるをえない。これらの事故処理もまた加味しないといけないかもしれない。

鉄道総研の統計論文(http://bunken.rtri.or.jp/PDF/cdroms1/0001/2008/0001003065.pdf)のようにこの手の自殺についてのコスト研究や経済的な研究はいくつもありますが、そのどれもが生命を救うに至らないのではないだろうか?そのように思えます。これほど本質をつくのが難しい問題はない。いじめの問題とほぼ同意義だと思うわけです。頭のいい社会学者や哲学者によれば言葉の定義によるというでしょうが(宮台がいうように)、それでは解決に至らないと思います(だが同時に私ごときが解決できる問題でもない)。

例えば、この統計分析についていえば統計学的な逆批判は十分できると思います。

・論文ではカイ二乗検定によって、帰無仮説がp値によって優位性が決定的に判断されていますが、ここでもかつて統計学タグの記事で取り扱った(http://mjdkoisuru.review/2016/12/18/312/)ようにp値については批判も大きく、統計学の御大フィッシャーなどの議論も含めて、近年は批判的な立場有。

・ロジスティック回帰(ロジスティック回帰の解説:http://www.ibaraki-kodomo.com/toukei/logis.html)を用いた時に排除しきれない多重共線性(マルチコリニアリティ:予測変数間の問題)やVIF統計量との関係はどうなっておるのか?変数選択のステップワイズ法に関しても取り扱い甘いのでは?

・想定外の値が本来あるのではないか?という論文の詳細にわたって書いてある以上のさらなる批判もできるはずです。例えば、自殺の認定条件について鉄道総研の上記論文では記載されておらず総体の統計量を見たときにほんとに矛盾ないか?

今回の事故についていえば、ある種の人生を全うするために同時に殉じたわけであって、どうも諸事情加味すればいくらでも統計的な解釈は広がりそうです。実は、これが統計の仕掛ける主観と客観のギャップたる罠であるわけです。私の父は治安関係の公務員だったので「もっとやるべきことがある」「自分の命こそ大切に」という父なりの論理もあっていいでしょう。であるけれども、ここはもうひとつ経験的な話をいっておきましょう。昔、新大久保で起きた事故です。

在日のかたが今回の事故と同じように別の命を助けようとして亡くなられた。映画にもなって今上天皇と皇后さまが映画の上映会にいったそうですね。それをみて今上天皇は、涙を流しながら「こういった命があったことを忘れてはならない」といったそうです。皇后さまも大変こころうたれて涙した。在日というマイノリティーの立場であっても必死で生きた人生だった。それも他人の命を救おうと殉じたことが頑として私たちの未来をかざしているように思えてならないわけですね。

さて、この話は話せば、統計学の立場だけではなく、社会学や人類知といった分野からも解析できるものなはずです。ましてやルビンシュタインや岩井が批判する(http://mjdkoisuru.review/2016/12/26/322/)ようにゲーム理論のような決定的事項でもってして感情の類を排除し、一段ひとっとびで考えることがあっていいのか…大きな疑問となって私たちの生命に、残酷な意味でも横たわっているように思えてなりません。もちろんこの提起的な結論でさえ稚拙であり、あくまでも自分個人の意見にとどまるものであることも承知しています。

さて、あなたはどう考え、選択するでしょうか?あかの他人の命を救うため自分の命を賭すでしょうか?
それとも「無視する」あるいは「見捨てる」でしょうか?私は現状どの選択肢も正解だと思います。

marikoi

ここの主筆・共同管理人。ぶっちゃけ狂人。

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