文芸:抽象化・対象・愛

抽象的な対象像を我々が思い描くとき、それはしばしば進歩性のないものとして写像される。文学・芸術・音楽・絵画…あまたの物語に対し写像たる抽象化は進歩性の芽を確実にもみとっていく。物語の抽象化はその物語自体の存続や進歩性を必然としてなくす。複製性時代の思想をかつてベンヤミンが言ったり、フランスで「芸術のための芸術」という概念が登場したりすることはとても象徴的だ。解決策はみっつある。それは思想家ベンヤミンの私たちに対するプレゼントだ。

ひとつめは文学・芸術の生きていた時代に頼ることである。芸術が語り続けられなくなってもそれを語り続けようとする。村上春樹のような存在がそう。作家の石田は村上の著書がいつまでも「窓際のトットちゃん」に発行部数で負けていることは文化人として恥ずかしいといっていたが、その通りである。はやくとっとと1000万部ぐらい販売されないかな?というのが石田のスタンスだ。文学性を古典性と結びつけて村上は描く。だから彼はエルサレム章を受賞して、ああいうスピーチをしたんだ。この手法はそれでもベンヤミンが言ったように複製性時代には難しく、一部の天才にしか到達しえないところ。村上ぐらいしか到達できないところだ。

ふたつめは差別的価値観を合理主義に結びつけて、古典性を混乱させることで、現実の社会に対するまなざしを見繕うことだ。この分野では筒井康隆が非常に著名。表現の蚊帳の外に出て、それをあざわらう。彼はSFやラノベでそれをしてきた。御年の今も精力的に活動できるのはこういう思想的な必然性がある。差別的であるが、それを芸術と混濁させ、きれいさの中に汚さを見出す。彼が「ときかけ」や「銀齢の果て」でした一連たる意義のある文学的行為だ。村上とは異質だが、これはこれで偉大なわけである。

みっつめ、芸術の復権はなにもこれだけに限らない。愛を語ることもまた時として重要だ。思想的なポジティブさというものはいつでも人間を励ましてきた。逆境から逃れるためであっても、それを最終的には克服してきたのだ。私たちは大人になる過程でそれを感じて成長していく。愛という概念がないのであれば、おそらくそこには正義や友情、親切さなんてものはいらないはずだが、人間は史実に基づいてそれを感じてきた。もし愛がないのであればそのほかのポジティブな思想もなくていいはずである。だが、それは頑としてあることを私たちは知っている。感情もまた抽象化され、人間が実体から脱却したとき、なにか得られるものがあるのかもしれない。だけれども、感情もまた抽象化されて、概念がコンセプチュアルにふるまうとき、こういったポジティブシンキングは極めて重要な要素だ。心なき人間はこの世にいない。

さて、日本の女性は古き時代より世間に中性化された美しさを芸術とからめて表現してきた。それが歴史的な美しさ・芸術の方法論であった。そのために、胸を隠すため、(中性を意識するために…)大きな帯をまとった。その姿は今もまた変わるものではない。和服という美しさは古典的な美しさと現代的な美しさを兼ね備えその芸術的な情景の橋渡をしていたわけである。おそらく、それが必然なのか偶然なのかについて、今現段階で我々が知るすべはないだろう。

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