マジで恋する書籍レビュー:「認知神経科学」道又

高校時代心理学を専攻したいという進路希望をする女学生を多く見た。予備校の講師なんかでは「あれ(心理学)は数学をやらされるんですね」なんてそういった”女の子”を小ばかにしていたのがいたけど、俺はそうは思わない。例えば、ギャザニガは分離脳研究の分野で認知心理学をリードする人物だが、数理モデルの人間ではないし、それでもノーベル賞級の学者だ。その師匠であるスペリー(学部時代は英語学の学位)に至っては脳分析研究の権威、しかも自然科学系のノーベル賞受賞実績がある。確かに現代の心理学は他の自然科学と結びつきその影響力は強くなっており、統計を中心とした数理モデルが必要とされるのは事実だが、研究方法がそれだけだとは必ずしも限らない。それはギャザニガやその師であるスペリーの偉大な業績が証明している。

それを裏付けるように日本の心理研究者である高もいろいろと文理の垣根については言及がある。心理系は文理融合の分野だから、統計の数理知識も求められるのも事実だが、現代まで一連につながる経験科学・神経科学について言えば、数理モデルや統計分析を過信するのは禁物だ。例えば、ファラデーは数学ができなかったが、電磁気学の分野(いわば電磁気的な理論証明ではないが、経験哲学における実験系では先駆的だと俺は思う)で大きな功績を残している。三菱総研の山形はこれをもってして「科学分野における数学偏重教育は良くない」というイギリスの民意世論の形成過程について言及していたことがある。分野こそ違うが、日本で著名な経済学者である池田は、「経済学は経験科学であり、ニュートン力学や数学を基盤モデルとする証明をモットーに据えるのは間違いなのだ」と、コース・ウィリアムソンの業績を引じて評している。

そもそも学問をさかのぼるとそれは脳を基盤とする、「思惟の哲学」だったわけで、その中に自然科学も含まれていた。要するに科学による数理モデルとそうではない部分は本来一体であったはずなのである。科学(=哲学)はイギリス経験論と大陸哲学とのコミュニケートがあってこそ生まれた人間の考えることを象徴した軌跡だったのだ。近年の脳科学の台頭と共にそれは見事に受容されつつあるロジックになりつつある。これが日本で養老や茂木・立花などが述べてきた世界で一番簡単な科学史の一面であるはずだ。

そういう意味で本書は非常に優れた認知神経科学もとい心理学の側面を明確に照らし出した重要な書物である。道又先生は放送大学の中でも非常に優しい先生として知られていて、学生の評判はよかった。もともと放送大の文化的な研究レベルは非常に高く、はっきりいって教授陣は国立大の学長を勤めていてもおかしくはないと俺は思う。特に彼ら教授陣の業績は基礎理論で非常に強力である。俺も放送大学の大学院の飛び級入試を受けたことがあるが、やはり落とされた。そのときの面接官が今で言う国内の歴史学研究の権威の先生方(中東研究の権威の高橋先生と中国研究の権威の西村先生)だ。彼らの求める研究レベルは極めて高く、俺はそれに”まったくついていけなかった”。なぜ工学を勉強していた俺が歴史学に興味を抱いたのかは依然自分でも不明だが、このときの院試の経験は必ず俺のエゴの中で教訓となった。曰く「歴史学の専門家として志望動機は認めるが中身がない」とwww。

研究分野を変えたり流行の文理融合研究をすることはものすごく大変だ。スペリーもギャザニガもそれを乗り越えた苦労があったからこそ今に至って評されている。はっきりいってこの程度のロジックは小学生でも本来良く理解できることだとは思うが、俺には決定的にそれが欠けていたと今になって自分のことを反省している。おそらく俺思うにこういった妥当な常識(とそれを疑う姿勢)を高校生のころからみっちりと教えておくことは偏差値偏重教育だけでは解決できない重要な時間だと思う。それは決して「心理学を専攻したいと主張する女学生に数理モデルが必須である説教話を講じることではない」…俺は今までの人生を振り返ってそう思う。

marikoi

ここの主筆・共同管理人。ぶっちゃけ狂人。

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