特集記事:Googleを超えた愛すべき馬鹿たち

Googleはいつでも自らの行いを正当化してきた。YouTubeに始まり、Google Maps、Google Books、Google Scholar…。どれもがユーザの自己責任と大企業のビッグデータの公共的活用のもとに自らの行いを高度な政治的判断にゆだね、司法までも論理的に納得させる強力なスタンスを構築してきた。ミルトン・フリードマンの孫、パトリ・フリードマンはGoogleのエンジニアだった立派な経歴があるが、彼は現在政治活動家であり、無税国家理論の推進者である。パトリの論理はGoogleのスタンスに妙に似ているように感じる。

例えば、どう考えてもYouTubeの運営責任はその運営者であるGoogleにあるが、「Googleだから」という理由だけでそれは寛容されてきた。Google Mapsも同じだ。彼らは金科玉条を振りかざして、プライバシーや肖像権の問題なんかいつでも吹き飛ばしてきた。結果、Googleの行い・サービスによって侵害された権利の補填をする必要性は彼らにない。それは倫理的には問えても、法的にはまったく問えないのだ。

国内外ではGoogle Booksに関していくつかの権利者の間で訴訟があるが、Google自体はこれをまったく問題にしていない。いわば社会を統括する法は、世界中の情報を支配しようとする試みの前には無力なのだ。これが、ミルトン・パトリの論じるGoogleの「社会民営化」の概念である。実装できるものは実装していき、いらないものはいらないときになったら有機的に切り捨てる。地頭でものごとをこなす彼らのルールはその社会的貢献として自らの行為行動を正当化し、その規模や力の前に法は完全に無力であり時に一瞬にして風化する。

もちろんここでGoogleやミルトン・パトリのことを批判するつもりは一切ない。それは彼らの自己責任論がコンテンツの投稿者に降りかかるからであって、それを超えた愛すべき馬鹿たちがいるということを今回は強調しておきたいだけだ。つべにも転載されているがニコ動で活動している”彼ら”はGoogleを優に超えている。

それは彼らが「自らの責任の下」とGoogleやニコ動から託された重大な条件に関わらず、闊達どころかときに無謀なことに臆せず挑戦するからだ。未成年でありながらタバコを動画上で吸ったり、下劣な替え歌を作って臆面もなく公開したり、リスペクト類のもの一切無視してしかも顔出しでリアルタイムに禁忌に踏み入れている。だが、それはここでは問題にならない。彼らが一切の権利を無視して自ら嫌うどころか”好んで”困難な立場に”わざわざ”足を踏み入れることがそれを如実に表している。これは明らかに天邪鬼どころではない。危険ですらあるが、彼らにその感覚は(いい意味でも悪い意味でも…)ない。

Googleにとって法は無力であるにもかかわらず、そのプロセスとして訴訟に勝ち法自体を克服する必要性は最小限はあるが、”彼ら”の前には法すらそもそもの意味を成さない。恭一郎、ボブリシャス、NIMO…愛すべき馬鹿たち、文字通り彼らは正当な権利の問題として「Googleを超えた」のだ。